prograde winter

hi, i'm JK. thank you.

過去の自分の黒歴史にツッコミを入れるコメンタリー集(2015年編・その2)

前回の続きだぁ!

2015年分はこれにておしまい!

 

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1122

/他者に認められたい。承認されたい。しかし、そんなことをあけすけに言っては、むしろ逆効果である。

 

【今の自分からのコメント】

おっしゃるとおり。

まあでも、承認されたいっていう欲求も、しょせんは遺伝子の生存戦略にしたがって実装されたコードに過ぎないんだから、べつにあけすけでもいいじゃんって思うけどね。

 

 

 

1124

 


/生きている理由を探すよりかは、死なない理由を探すほうが簡単だろう。なぜなら、あることを証明するよりも、反証するほうが容易だからだ。譬えば、全称命題を経験的に証明することは不可能だろう。少くとも、ぼくには不可能に思える。それにくらべて、全称命題を否定することは容易だ。たったひとつの反例を生じるだけでよい。それで、つみあげてきた証明の山は崩れる。完全に崩れさるとも限らないが、部分的でも崩れればよいのだ。そういう理由から、生を肯定するよりかは、死を否定するのがよいと思う。生の肯定は困難である。誰であっても、一度や二度は、自棄を起こすことがあろう。もうこんな人生はいやだ。生きていたくない。死んでしまいたい。消えてしまいたい。一生のうちで、誰しも一度くらいは思うのではなかろうか。ぼくなぞはしょっちゅうだ。だから、生を完全に肯定することは難しい。最善観のまえに、悪の存在が立ちはだかるように、生を肯定するには、死という問題を乗り越えねばならない。死とは、乗り越えるにはあまりに深すぎる。どうあっても越えられぬような気さえする。であれば、死を否定するよりあるまい。いまはまだ、死ぬべきでないと思うよりほかあるまい。

 

【コメント】

ところどころ論理の飛躍が見られるけど、今読んでもそこそこおもろい気はする。

ぼくは昔から、自分の死ねない理由を考えているんだけど、これは無理やりひねり出したアプローチのうちのひとつね。死ねない理由については、今はもうあんまり考えることはなくなってしまった。これは大人になったと言うべきか、どうか。

 

 

 

1128


/一年以上も寝かせていた(怠惰のために読まなかったのではなく、あくまで寝かせていたのだ)、マルコムによるウィトゲンシュタインの評伝を読んでいる。むずかしい表現はなく、ただひたすらに読みやすい。それにおもしろい。なぜ今まで読んでいなかったのだろうと思うほどだ(寝かせていたから、面白かったのかもしれないけれど)。
知らずのうちに僕は、ウィトゲンシュタインを神聖視していたのだけど、この本を読んで目が覚めた。というのも、彼に対する敬意(なしとげた仕事と生き方への敬意)は少しも損なわれてはいないが、盲信とも思える信仰を打ち払うことができたのだ。彼が天才であったことは疑いない。しかし、雲の上にいるような、神様の如き存在ではないのだ。
それから、彼が文章の音律について話している箇所が心に残った。文章の音律といえば、泉鏡花が心を砕いたことでもある。文章は目で追うものであるとともに、耳で聞くものでもある。その点で、音律というは美文の必須要素なのだろう。ウィトゲンシュタインも鏡花も、そこに気がついていたのだ。

 

【コメント】

ウィトゲンシュタインっていう哲学者の伝記を読んだよって話をしている。マルコムっていうのはウィトゲンシュタインの弟子にあたる人ね。

ぼくは研究者でもなんでもないから関係ないんだけど、どうやら、ウィトゲンシュタイン研究者の人たちというのは、他の哲学研究者に比べて研究対象を信奉しがちな傾向にあるみたいね。どっかの教授がその様子を「ウィトゲンシュタイン教」と形容していた気がする。まったくのしろうとであるぼくも、ウィトゲンシュタインという哲学者の数奇な人生や、その精緻かつ透徹した思考に魅入られ、信仰に似た感情を抱いていた時期があったんすよね。まあ、哲学に以前ほど興味が無くなった今でも、ウィトゲンシュタインのことは尊敬してます。
あと、最後らへんに出てくる泉鏡花の話は、「文章の音律」という鏡花のエッセイにくわしく書かれてあるので、興味のある人は是非読んでみてほしい。かつて戦後国語改革の折に起きた新旧かな論争などと併せて見ると、自分の母語に対する姿勢ががらっと変わるはずだ。

 

 


1207


/あなたが何を知っているというのか(ぼくは何も知らない)。何も知らないというのに、どうしてそうまで自信に満ちているのか。それともあるいは、ぼく以外のすべての人が、隠された何ものかを知っているとでも。
/たかだかパンの耳のあたりをかじっただけで、パンの味を知った気でいる。白くやわらかな、とろけるような食感も知らないで。
/しかしパンはどこからが耳で、どこからがそうでないのか。パンを耳とそれ以外に分ける境界はあるか。
/たとえ境界があったにせよ、その境界はどのようにして境界たりえているのか。

 

【コメント】

なにかに憤ってたんだと思うけど、なにに憤ってたのかは覚えてない。書き方がなんか藤本隆志訳のウィトゲンシュタインの文章みたいだよね。たぶん影響されてたんだろうなあ。

この当時、周りの人はなんでこんなに自信満々(のような風体)で生きていられるんだろう、ってしばしば思っていた記憶があって、たぶんこれもそういう意図で書いた文章。

 

 

/現実にハーモニーは訪れない。ならば、われわれは治療されるべき意識にすがる他ないではないか。意識という病巣とどう付合ってゆくか。折り合いをどうつけるか。
/苦しみが悪である、リソース意識が悪であるというのも、意識があってのみ成立しうる。そもそも論考それ自体が意識の産物だろう。純粋経験を論じた西田が陥っていたような、「語り得ないもの」を語る困難に直面しているのではないか。意識外を意識でもって語ることは可能か。正当化や証明は、意識のうえに成立しているのではないのか。前意識的証明は存在するか。
/浅学ゆえの蛮勇に他ならないのだろうが、ぼくはまだ、意識というものが必要であるように思えて仕方がない。意識の持っていた神秘性のようなものは喪われたのかもしれないけれど、意識は人間が人間たりえる必須要素であるように思える。対立や矛盾があるからこそ面白いのではないか。苦痛在っての快楽であり、快楽あっての苦痛である。

 

【コメント】

たぶんこれは、伊藤計劃『ハーモニー』へのラブレターじゃないかなあ。ぼくは伊藤計劃作品の中でも『ハーモニー』がとくにすきで、はじめて読んだときには、それこそ救われた気持ちさえしたものだけれど、「進化的に不要なのだとしたら、意識は治療されるべきである」という結論に、それでもどこか疑問を感じていて、これはけんめいにぶつかったその結果だ。ちなみに今だと後出しじゃんけんで余裕です*1

 

/死を選ぶのはたやすい。そのうえ、それを拒むものは存在しない。しかし、そう思うとともに、生きねば成らないと思う。盲目な意志がぼくを貫いている。このめくらと死にたがりとの喧嘩を、どう仲裁すればよいだろうか。
/今年からはじめたこの雑感も、それなりの分量になってきている。ただ、読み返してみると、たいていがありきたりのことで、おもしろくない。けれど(2017年1月5日校閲)砂塵の中に、一粒くらいダイヤがあってもいいのではないか。

 

【コメント】

よくあるエロスタナトスの対比をめくらと死にたがりの喧嘩と呼んだところは、「え……ちょっとかっこいいじゃん……」と思ってしまったので評価したい。後者の文章については、自己陶酔成分が多量に含まれすぎて胸焼けがしそう。

 

 

 

1210


/人生に意味はない。それは明らかなことだろう。しかし、それでも、人生に意味を求めずにはいられない。だって、意味のない世界は乾燥しきっていて、人の住める環境にないから。

 

【コメント】

出たよそれっぽい文章。そもそも人間にはインタプリタモジュール標準装備されている*2から、意味のない世界なんて想定するだけ無駄でーす。はい終わり。
このころのぼくは、それこそ黎明期の分析哲学なんかの影響で、意味という概念に過度に惑わされていた節がある。

 

 

 

1213


/敗北主義には、陥りたくない。


1215


/許されないもの。冷笑家、敗北主義者、知的怠慢。そういうものに成り下がったときは、死のうと思う。

 

【コメント】

1213の記述と合わせて、人生の格率として勝手に定めたこと一部だ。これは未だに胸に刻んでいる。まあ、ここに書いてあるほど厳格に守らないといけないとしたら、ぼくはもう30回以上は自害しなきゃいけないとは思うんですけどね。はははは。

 

 

/永遠の今という考え。直線的な時間でないにせよ、未来を推測することは不可能に近い。それに、未来というのは一生訪れない。だとしたら、現在を生きるしかないのである。

 

【コメント】

これはたぶん、西田幾多郎の議論が頭をよぎったんじゃないかなあ。西田の思想はわりとすき。でも、学派としてはあまり好きじゃない*3

 

 

1222


/たとえば梶井基次郎のような文才を手にすることができたなら、ぼくは悪魔に魂を売ったっていいと思っているのだ。ただ残念なことに、いつになっても悪魔はやってこない。ぼくの魂がまずすぎるせいだろうか。

 

【コメント】

自己陶酔してますわな。

まあでも、突然目の前に悪魔が現れて、「ドゥハハ魂と引き換えに梶井基次郎ばりの文章力をやろうドゥハハ」とか言ってきたら、即座に首を縦に振るとは思う。

 

 

1224


/日常をとりまくもの。たいていが倦怠感。それと嘔吐感。
/ここのところとくに、ぼくの感覚は人とずれているのかもしれないと思う。

 

【コメント】

これまた陶酔してますわね。陶酔。
感覚がずれてる云々については、「うわー出たよ。人とは違うアッピルしちゃうやつだよヒャー」って思うかもしれないけれど、次年以降も引き続き登場するので、どうかそのときまで評価は差し控えておいて頂きたい。

 

 

下巻文体論(p.95~);文体には三つの分類がある。雅文体・俗文体・雅俗折衷体がそれである。雅文体は「文弱婬靡(p.98)」 なる、中世は藤原氏の婦人連により書かれた文体を元にしており、婉曲閑雅の文体にして、豪放磊落とした物事の描写には適さない。対して俗文体は時代時代の話し言葉をそのまま書き記したような文体であり、民衆風俗などを書くのに向く。しかし、軽薄である。この両者を絶妙の塩梅で成立せしむるのが雅俗折衷体であり、折衷体はその配合のバランスから稗史(よみほん)体と艸冊子(くさぞうし)体とに分けることができる。(続)

 

【コメント】

たぶん坪内逍遥の『小説神髄』の読書ノート。

本読んでも忘れるからノートにつけなきゃと思ってたまーにつけようとするんだけど、大抵の試みが三日坊主で終わってますがな。これ以外ノートにとっていなかったせいか、案の定『小説神髄』の内容はまったく覚えていない。

*1:ハーモニー発刊当時には出ていなかった書籍の知見から議論できるという意味

*2:左脳の司る機能のひとつ。あらゆる外界の情報は感官に入力され、右脳で集約のうえ、左脳で意味づけされる。

*3:聞いた話では、京大は西田学派が幅を効かせていたせいで、分析哲学系の先生方がずいぶん割を食っていたんだそうな。だからあまりいい印象を持っていないのだ。

過去の自分の黒歴史にツッコミを入れるコメンタリー集(2015年編・その1)

《凡例》


過去の自分が必死になって書いてた雑記を、今の自分が面白おかしく取り上げてネタにしてやろうというセルフ性悪企画だぜ。イェア。

昔書いたものを読み返してみると、今でも考えの変わってない部分とか、逆に、既に乗りこえてしまった部分なんかが、ないまぜになっててなかなかおもしろいぜ。ぜひみんなもやってみてくれよな。

構成としてはまず昔自分の書いたものが載っていて、その直後にそれに対する現在の自分からのコメンタリーが載ってるぜ。暇だったら順番に読んでみてくれよな。暇じゃない人はよかったらツッコミコメントだけでも読んでみてほしい。今回は2015年の田代と対話をしてみたぜ。それではチェケラ。

 

(本当は2015年のものをすべてひとまとめにしたかったけれど、思いのほか分量があったので分割してお届けします)

 

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ホントにわかる(かもしれない)フォントのはなし【おおきさ編】

■イントロダクション


先日、友人たちとデザインの話をする機会があった。
その友人たちというのが、同人誌をつくるような人たちだったので、話が自然とレイアウトだとかフォント選びだとかの話になったのだ。ぼくは普段から多少そういう関連のことをしていることもあって*1いろいろと知っていることを伝えさせてもらったんだけど、そこでひとつ思ったことがある。
 
それは、

みんなわりとフォントくんのことを知らないのかも

ってことだ。
 


正確には、そもそもフォントくんがあまりに当たり前に存在しすぎていて、すでに知っていると思い込んでしまっている*2、というのが正しいのだろう*3


巷にあふれている、「人間外見より中身だよね!」的な言説と似たようなものだと思うんだけど、みんな意外と文字情報の外見=フォントくんのことをちゃんと見てあげてないと思うのだ。
逆にいえば、ぼくたちが普段目にしている文字情報というのは、だいたいの場合において、外見=フォントくんのことが気にならないくらい見事なタイポグラフィック・デザインが実現されていて、ぱっと見るだけで中身=情報が伝わるようになっているともいえる。

 

うーむ。これってすごく理想的な状況ではある。でも、あまりに自然に読めてしまうっていうことは、それだけ疑問を挟む余地がないってことでもある。
「テツガクは驚きからはじまる」ってどっかの古代ギリシアの人も言っていたように、人間って、自分から疑問に思ったり、不便に感じたりしないと、そのことに真剣に取り組んだりしないものなのね*4
だとすると、人によってはフォントくんのことをぜんぜん顧みないことだってありうる。これって、その人にとっても、フォントくんにとっても、すっごく不幸なことなんだ。
 


だから、ここで、ほんのすこしだけフォントのはなしをしようと思う。
ほんの触りだけ、最低限のデザインをするのに必要なだけ、フォントのはなしをしよう。
きっと周辺情報はとりあつかわないだろう。だから、ややこしい文字集合文字コードの話なんかは(多少は知っていてほしいけれど)出てこない。

ただ、あなたの伝えたいことが、フォントくんの見た目のせいで伝わらなかったりするようなことがないように、

あなたの表現したいものが、きちんと適切な相手に伝わるように、

そのために必要なことだけはなそう。


きっと長くはない旅だろうから、少しの間、ついてきてもらえたらうれしいな。
 

 

 

■フォントくんのなかみ:あなたの意図

中身ばっかりみてないで外見=フォントくんのことも見てあげてよ! ってはなしをさんざんしておいてなんだけど、ちょっとだけ中身のはなしもしよう。いや、実際中身もすっごく大事なんだ*5
ことばをつかおうがつかわまいが、コミュニケーションの本質は「達意」にある。意思をつたえるってことね*6
形式はいろいろあるだろう。文字でも、絵でも、音楽でも、映像でも、はたまた体を使った表現でも、とにかく表現というのは、伝える側の意図があって、それを伝えるためにおこなわれる。

ようは伝えたいことが伝わらなかったら意味がないわけだ
 
ぼくがいま話そうとしているフォントくんというやつも、そういう伝えようとする行為、コミュニケーションを円滑にするための道具、表現形式だ。
だとすると、フォントくんについてふかく知るためには、フォントくんによって表現される内容そのものについても、すこしは知らなければならないことになるだろう。


もし、あなたが今、フォントくんを使って何かを表現しようとしているなら、ここですこし考えてみてほしい。あなたが伝えたいことってなんだろうか

たのしいことだろうか。

かなしいことだろうか。

それとも、そういった気持ちでははかれないような、もっと複雑なものだろうか。
 
とにかく、あなたの表現しようとしているものの形を、輪郭を、かんがえてみてほしい。
そうすることによって、それをあらわすのに適した容姿のフォントくんを選ぶことが、はじめてできるのだ
 

 


■フォントくんのかたち:おおきい? ちいさい?


伝えたいものが定まったところで、フォントくんのことをくわしく見ていくことにしよう。
 
まずはとっても単純な事実の確認からだ。
透明な立方体がふたつあるところを想像してほしい。そして、そのなかになんでもいい、なにかものが入ってるとしよう(仮に、うにょうにょしたスライムみたいなものとしておこう)。立方体に入っている中身を比べてみると、片方が大きくて、もう片方はちいさい

さて、ここで質問だ。
おおきいほうちいさいほう、それぞれに対してどういう印象をおぼえるだろうか。ちいさい子がやるような単純な認識の問題を出されて、馬鹿にされてるように思うだろうか。でも、これってすっごく大事なことなのだ。デザインにおける本質を捉えているといってもいい。だから、当たり前で退屈に感じるだろうけど、すこしだけ付き合ってほしい。
 

まずはおおきなものから。おおきなものって、とにかく目立つよね。それに、ちいさくちぢこまっているものよりかは、ずっと活動的に見えるかもしれない。
それに対して、ちいさなものというのは目立たないんだけど、目立たないことがいいところだったりするかもしれない。たとえばそこまで目立たせたくないものだってあるだろうから。それに、主張が大きければいいってものでもない。うるさくないもののほうが、ながく付き合うのにはいいかもしれないよね。
 
この単純な事実というのは、フォントくんについても当てはまることなんだ。
実は和文、つまり日本語用のフォントの構造は、上で考えた立方体の例まんまなのだ。より実際に即した形にするならば,透明な紙のうえに、文字が乗っかっているイメージだ。

もう少しくわしく言うと、和文フォントにおいて、それぞれの文字は透明な正方形*7に収まるようにデザインされるんだ
だからさっき考えた、大小に関する単純な事実があてはめられる*8

もちろん、それぞれの文字がもともと持つ大きさによって、文字が透明な正方形に占める割合は変化する。画数が多いほうが正方形いっぱいに描画されるだろう。
けれど、それだけじゃない。フォントが違うと文字のそれぞれのパーツの太さや形がちがってくるだろう。それによって、同じ文字であっても、占める面積が変わってくるのだフォントを選ぶときは、これがミソとなる

 

フォントによるちがいを見るために、たとえば、ごくごく初歩的なちがい、そう、ゴシック体明朝体のちがいを見てみよう。

 

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源ノ角ゴシック-Regular(上)と源ノ明朝-Regular(下)

 
この写真に示されているのは、それぞれ、源ノ明朝と源ノ角ゴシックというふたつのフォントで表現された文字だ*9
このふたつのフォントは、「源ノ」という共通の名前がついているように、根底に共通するコンセプトを持っている。
でも、このふたつのフォントは見かけがまったくことなるよね。

きっと、ゴシックのほうが大きく(太く)見えるんじゃないだろうか。それはそのとおり。ゴシック体のほうが、文字の各パーツ*10が太く、大きくデザインされているのだ。一般に、見出しにゴシック体が推奨されるのは、この性質によるんだ。大きいからはっきりしてて見やすいってことね。

逆に明朝体はすこしちいさく(細く)見える。それからよく見てみると、文字のはしばしに、三角形のしっぽみたいなものが付いている。これはウロコといって、字にメリハリを与えてくれるものだ。

さっき考えた法則に当てはめてみれば、明朝体ちいさいから主張は弱い。けれど、そのぶん長く見ていても疲れづらい。さらに、ウロコがあってメリハリがついているから、文章にしたとき読みやすい。書籍なんかで、ほとんどの本文に明朝体が使われているのはこうした特徴によるだろう。

もちろんこれは一般論で、見出し用につくられた明朝体があれば、本文用につくられたゴシック体もある。あくまで例なのだ。

 

ここでわかってもらいたいのは、フォントによって透明な正方形に占める文字の割合が変わるということだ
簡単に言うと、大きかったり小さかったりするってことね。
そんで、大きいやちいさいっていうのはそれだけで見え方がちがってくる大きいほうがぱっと目に入ってきやすいし、小さいほうが長く付き合っていきやすい。

 

 

 

 

次は、明朝とかゴシックとかいう大枠だけじゃなくて、もう少しくわしく、フォントの出自について見てみよう。

 

(つづく……かも?)

 

※更新履歴

2019.11.18.公開

(同日) 注に誤りがあったので訂正。誤)『新文章読本』→正)『文章読本』(丸谷が書いていたのは『文章読本』でした。『新文章読本』は川端だったか。文章読本ってタイトルの本多すぎてごっちゃになるのよねえ。ちなみに、谷崎と丸谷のそれはすっごくいい本なのでおすすめです。)

*1:といってもデザインは専門ではない。もっぱらDTP下流工程を担当することが多いのだけれど、たまーにエディトリアルデザイン的なこともやったりするので、まったく知らない人と比べれば、そっち方面には多少は明るい気はする。

*2:身近なものについてほど無知であるというのは、べつに普遍的な法則ではないけれど、ある種の真実をあらわしていると思う。たとえば、アウグスティヌスが、時間というあたりまえのものについて似たように評していることを思い起こされたい。

*3:巷にあふれている、MS明朝・ゴシックがふんだんに散りばめられた、クソダサフライヤー・ペーパーの類を思い出してほしい。といっても、Win8以降はWindows環境においても、字游工房のつくったクールなフォントがバンドルされるようになっているから、状況は改善されているんだと思う(たぶん)。でも、いまだにクソダサフォントは見かけることがある。それは、フォントくんのせいじゃなくて、きっと、選び手がへたくそなせいなのだ。

*4:ケーザイガクでいうところのインセンティブってやつだ。もともと改善しなくてもいい状況(だと感じられるような状況)だったら、そもそも工夫しようだなんて思わないよね。

*5:かのソシュール大先生も言っているとおり、記号というのは内容を表現する形式と表現される内容とでできている。ここでいうと、表現形式であるフォントくんがいかにがんばっても、内容とあってなかったりしたら本末転倒なんだ。あくまでも形式と内容のふたつが、なかよく手をつないでいなきゃなりたたない。

*6:これについては丸谷才一が『文章読本』ですごくいいことを言っている。

*7:仮想ボディという。

*8:この考え方はいろんなところで応用が効く。たとえば文章のリーダビリティがそうだ。ひらがな・カタカナに比べて、漢字というのは画数が多い傾向にある。つまりは字として密度が濃く、大きくなりがちだ。だから、漢字を多くするとぱっと見たときの主張が強くなって、視覚的にも読みづらく感じやすい。

*9:写真はAdobe Fontsの該当ページ「源ノ明朝(https://fonts.adobe.com/fonts/source-han-serif-japanese?ref=tk.com)」,「源ノ角ゴシック(https://fonts.adobe.com/fonts/source-han-sans-japanese)」をそれぞれキャプチャしたもの(2019.11.18付)。引用の範疇に沿った利用と考えますが、万一問題がある際は一報下さい。ただちに差し替えます。

*10:エレメントという。

/20190927 「そして哲学にできるコト」ほか3本

そして哲学にできるコト

(このトピックスは一番最後に書いてることもあって一番展開が雑い。あとで書き直します。)

題名はDay after tomorrowの名曲をもじったもの。あの頃のmisonoさんめっちゃすきなんだよなあ。かわいいよね。

ここ1年くらいは経済学他に関心を寄せていることもあって、哲学はほとんどやっていない*1。なんだったら哲学に対するモチベーションも、一部分野を除いては冷めつつある。それで、すこし離れたところから哲学という学問について考えたりするんだけど、最近とくに考えているのは、この先の世界で哲学に何ができるかという問題だ。

ぶっちゃけ哲学にとって一番のネック(かつ一番の長所にもなりうる点)って、基本後出しじゃんけんしかできないところだと思うのよ。ヘーゲルも言っていたけれど、ミネルバのふくろうは、黄昏に飛び立つしかないわけ。問題が起こったあとの総括しかできないから、現実に対する訴求力をそこまで持てなくて、その結果社会的に軽んじられたりしてしまう。

それから二点目には、多くの哲学者は、大上段に構えたトップダウン型の議論しかしてないってとこ。例えば日本で言うと戸田山センセとか、科学が経験的に証明してきた事実を真っ向から受け止めて、立ち向かってる哲学者もいるっちゃいる。でも、そういう人って非常にすくない気がするのね。これは一点目にも若干関わってくることかもしれない。

他にも挙げようと思えばいくつも出てくるのかもしれないけど、ちょっと飽きてきたので、問題点を挙げるのはこのくらいにしておこう。ぼくは哲学という学問が好きだったし、いまも好きだ。だからこそ今のような形で、どんどん肩身が狭くなっている状況を非常にかなしい気持ちで眺めているわけですよ。……まあ、だからなんだって話なんだけどさ。

ぼくがいま関心を寄せている経済学なんかは、現実を変える確固たるパワーがある*2。理論家としてトップクラスの経済学者は、政府機関や世銀なんかでバリバリ政策提言をしていたりして、トップクラスの実務家でもあったりするのだ。それに学問の強度としても、いわゆる文系学問の中だとトップの健全さ*3を持っていると思う。そういう学問をかじっていると、ふいに思ってしまうのだ。

いま、テツガクにできるコトってなんだろう、ってね。

 

 

けっきょくロンボルグの議論って明確な形で論駁されたりしたの?

ちかごろ環境保護関連の話題がさかんだ。こうまで関心が高まっているのは、やっぱり16歳の例の活動家がきっかけなんだろうけれど、その件自体についてはひとまず置いておこう。まあ、ああだこうだ言ったところで別にどうなるわけでもないしね。

ぼくは世間のニュースにはひどく疎いほうなんだけど*4、さすがに例の活動家関連のトピックスは耳に入ってきた。そこでまず思ったのは、

 

ビョルン・ロンボルグの議論って明確に論駁されたりしたの?

 

ってことだ。

いやあ、見事にグレタちゃん関係ねえな。引くぐらい関係ねえ。

ええと、そもそもビョルン・ロンボルグって誰やねんという話なんでございますけども、説明するのがめんどいので以下のビデオを観て頂きたいわけでございます。(埋め込み方よくわかってなくて字幕の指定がされてないから、適宜日本語字幕を設定して観てね)

 

www.ted.com

 

いちおう補足をしておくと、ロンボルグはデンマーク政治学者で、もともとはゴリゴリの左翼環境保護活動家だった(はず)。それがあるとき、自身の専門分野である、統計学的に環境問題を精査してみたらどうなんでっしゃろ、ということで各種統計を洗ってみたところ、地球温暖化をはじめとする環境問題って世間が騒ぐほど絶望的ではないし、むしろ改善の一途を辿ってんじゃん!!!!ということに気づき、以降は環境問題に対し冷静な目を向けるように提言を続けている学者だ。

上のビデオでも明らかなように、ロンボルグは地球規模の問題に対して、優先順位をつけることを提案している。まあこういうと結構反発とか起きそう(案の定環境保護を専門とする学者なんかからぶっ叩かれたりしているみたい)なんだけど、問題に向き合うためには必ず必要とされるプロセスではあるのだ。

なぜなら、あらゆる資源は希少だからだ。

これは経済学の基礎をなす考え方で、あたりまえの話ではあるんだけど、時間的なものにしても(時間も資源の一種だ)人や土地や各種設備など物質的なものにしても、あらゆる資源には限りがあるのだ。限りがなかったらいまごろ世界中には真の意味での共産主義国家が乱立しているだろうし、あっちもハッピーこっちもハッピーでみんなハッピーな世の中だろう*5。でも実際はそうじゃない。あらゆるものには限りがある。

地球温暖化をはじめとする各種地球規模の問題でもそれは同様であって、あらゆる問題に対して、まったく同じだけのコストは掛けられないわけ。そこで自然と優先順位をつけましょうという話になってくるわけだと思うんだけど、ロンボルグの議論では、地球温暖化に対する優先順位はそこまで高くないのだ(というか議論で挙げられている問題の中で最低だ)。

個人的にこの議論はとてもしっくりくると思うのね。

なぜなら、環境問題というのは素人目に見て、原因の同定が非常に困難な問題だと思うから。環境というもの自体、非常にカオス的な現象なわけでしょ。蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶじゃないけれど、何が原因となってその状況になるかって、おそらく分からないわけじゃない*6。なおかつ、それが100年単位200年単位でどうなるかという話だから、そもそも具体的かつ効果的な方策って取りづらいと思うのよ。人間って長期の予想とか苦手だし。だからほかのところ、例えば途上国に対する支援をして、世界全体を豊かにしたほうがいいんじゃないって話よ。そうしたら今は難しいことも、豊かになった状態だったらできるようになるかもしれないじゃない。

そんなこんなでロンボルグの議論には親近感を覚えたりしてるわけなんですけど、この議論って明確な形で論駁されたり破棄されたりってしてるのかしら。ぶっちゃけこの分野については無知に等しいので、ぜんぜん知らないんすよねえ*7

で、冒頭のトピックスに戻ってくるわけなんだけれど。ロンボルグのこの議論に明らかな理論的破綻やクリティカルな反証があって棄却されてたんなら、今グレタちゃんがああいう演説をすることにも意味はあるんだろうけど、そうでないならあの演説って、自分たちが食いっぱぐれないように、環境保護団体が一芝居うってるようにしか思えないのよ。

ロンボルグの議論って、けっきょくどうなったのかしらね。

 

プロメアは炎炎ノ消防隊のパクリなのである!!!!!!!(大爆笑)

なんか一時期騒がれたよねって話をなんとなく思い出した。

そんでぼーっと自分のEvernoteを見返していたら、その頃にブチ切れて書き散らしていた雑文があったのでここに供養しておきたい*8。書いた当時は炎炎の方は未見で*9、その関係でやたらプロメアに肩入れしたような論調になっているのはどうかご了承頂きたい。

 

(以下、雑文)

 

巷では、どうやらプロメアのパクり疑惑で盛り上がっているらしい。

バズりそうな話題には、蝗のようにすぐさま群がるまとめブログの連中も、こぞって取り上げているくらいなので、けっこうな話題といって差し支えないんじゃないだろうか(余談だけど、こんな下品な連中が同人ゴロだなんだといって話題のキャラを描きたがる絵描きを笑っているのはとても滑稽だよねえ)。

で、それはそうとプロメアはなにをパクったのよ。大久保篤炎炎ノ消防隊?ああそう、そんなのもあったわね。ふうん。今度アニメにもなるの。まあたしかに、プロメアと炎炎ノなんとかいう漫画はどっちも消防隊が主役だし、敵の成り立ちようも似てるっちゃ似てる。というかそっくりだ。

でもさ、これって、消防隊をメインに据えたらだいたいこういう構図になるんじゃないの?

「消防隊を主役にする→火を消すから敵は火をつけるやつだ!→火を操る能力者を敵にしよう!」

ってな具合で、バカなワタクシでも3秒くらいで思いついたんですけど。っていうか思いつくもなにもないですよねこれ。大喜利で回答したら失笑されるくらい捻りがないんですけど。ひょっとしてパクりとかって言ってる連中は、たったこの程度の一致で文句をつけてるわけ?

まあでも、スタジオトリガーと言ったらキルラキルでも堂々とパクりをやらかした極悪非道の制作会社だし(真に受けるなよ:ちなみにパクったのは学園なんとかいうクソほども売れてない漫画ではない。かのバリントン・ベイリー先生の傑作SF、カエアンの聖衣をパクったのである!!ギャハハハ)、今回も卑劣極まるパクり方をしておるのやもしれんね。

というわけで、調べたのよ。でもさ、これ以上の一致点出てこないわけ。これはいったいどういうことお!?!? 邪悪の権化ことスタジオトリガーのやり口なんだもの、もっと盛大にパクりまくってるんでしょお!?!? 火を消すためのロボットとか、中盤に出てくるでかいあれとか、発火人間が発生した理由とか、ラストででかいあれがああなってああなるやつとか、そういうのも全部ひっくるめてパクってるんでしょお!?!? ええ、ちがうのお!?!? じゃあみんなはなににそんな怒ってるのお!?!?

それがわからないのだ。何に対して怒っているのか。そこそこの数のツイートを漁ってみたんだけど、怒ってる人たちはパクり云々は前提としたうえでただただ怒っているのだ。

いや、でもさ、ちょっと考えてみてほしい。それってほんとにパクりか? 

最初にぼくが指摘したみたいに、正直この部分の設定だけならアホでも思いつくわけだ。プロメアも炎炎ノなんとかもこんなしょーもない部分で人気があるわけじゃないでしょ(少なくともプロメアはちがう)。それともこんなしょーもないとこが同じだっただけで魅力がなくなるくらい、このふたつの作品はしょーもないわけ?

んなことないでしょ。ぼくはプロメアを3回くらい観に行っているけど、別にこんな部分が気になって観てるわけじゃないのだ。

最後になるけど、大久保篤の例の作者コメントを見る限り、プロメアのことだなんて一言も言ってないよね? まあたしかに、簡単な推論でそうとは察せられているわけだけれども、かといって断言はされてない以上、「『炎炎』の作者が怒ってる~」だとかいって気炎をあげるのはあまりにも早計なんじゃないのかしら。

なんともポスト・トゥルースな世の中だことだねえと思ってしまったことだよ。

 

 

(以上、雑文終わり)

 

いやあ、キレてますねえ。キレてる部分はさておいて、議論の大筋についてはいまも同じことを思っております。ぶっちゃけパクリでもなんでもねえよあれ。

おわり

 

更新履歴

2019.09.27.公開

(同日) 一部注に追記。ぺぺーっと書いた雑文なのであまり厳密さには気を配ってないんですが、それにしてもアレすぎんかという部分に加筆した。

*1:って言ってもなんのこっちゃって話だと思うので補足を。いちおうワタクシ、哲学を専門に学んでいた時期があったんす。っていうかこれまでの人生で一番まともに取り組んだ学問が哲学って感じなんすよ。かれこれ10年以上は関心を持ち続けているので。

*2:こういう物言い、10年前のぼくが聞いたら怒るんだろうなあ。おまえの言う現実ってなんだとか言ってさ。

*3:論理的な健全さ。経済学は数理モデルを扱うのでごまかしが効きづらい。すくなくともソーカル事件みたいなことを起こしようがないのだ。

*4:なにしろテレビがないからニュース番組なんて見ないし、いちおういくつかの報道ソースをフォローしてはいるけれど、本当に気が向いたときしかみないのよ。まじで。

*5:共産主義って理念的な意味では至極当然な帰結だと思うんだけど、あまりにもロマンチックな話だよねえ。書き飛ばしてて気づかなかったんだけど、これはさすがに生産性のことを考慮してない暴論だった。まあでも言わんとしてることはわかってほしい。そしてそれが皮肉であることさえ伝わっていれば大丈夫だ。

*6:分かってたら環境問題というものにこんなに紛糾してないだろうしね。

*7:調べりゃええじゃろって話なんですけど、他のことそっちのけで調べたいかっていわれるとそれほどでもないんだよなあ。

*8:別に書くことないから過去に書いたものでお茶を濁そうという意図があったわけじゃないんです。本当なんです。

*9:その後ちゃんと視聴致しました。おもしろかったです。ただ、ちゃんとおもしろいんだから、プロメアのことを変に意識して、パクリだとかなんだとか言わなくてもよかったんじゃないかなと思う。アニメしか観ていないので、もしかしたら原作はもっと違うのかもしれないけれど、ある程度観たいまもなお、ふたつの作品がそこまで似ているとは思えないのだ。

/20190907 prograde winter

(20200509コメント:なぜかずっと下書きで寝かしていたブログ開設しちゃうぞ記事を今更投稿しちゃうぞ)


はじめに

 ブログしまーす。うーい。

 

 始まりましたー。あーい。

 

 さっきからブログを始めるに至った経緯を、書いては消して、書いては消してを繰り返して、はや1時間に届きそうになっていたので、開き直ってきわめて簡素な書き出しから始めることにした。

 っていうかあれだよ。どこの馬の骨ともわからんような、十把一絡げにしてもどれがどれだかさっぱり見分けのつかん、吹けば飛ぶほどのささいな輩が、ブログを始めようが何しようが、市井の人間の感知するところではないわけですよ*1。なので、くだくだしくブログ開設の経緯などを開陳しようとするほうがオカシイのだ。恥を知りたまへこのゲロウ*2

 えーと、気を取り直しまして。このブログは田代の文章練習の一環というか、たまには文字の形で吐き出してやらないと、自分の思考の輪郭すら思い出せなくなってしまいそうだったので、何かしら文章の形で書き表す場をつくろうと思ってつくったのである。とにかく読んで書けと大谷崎も言っておったし。ああ、結局開設の経緯を説明してしまった。まあいいや。

 飽き性なので、どうせ一週間も経たないうちに更新が滞って御破算と相成るかとは存ずるわけではございましてございますが、がんばって続けようと思います。もしかするとこれが、老後の趣味につながるかもしれんしね。老後まで生きてるかはしらんが。

 

最近考えたこと

  • サイボーグはもはやSFじゃねえなって話。

 読んで字のごとくなわけですよ。もうね、サイボーグだとかサイバネだとかはフィクションじゃねえのな。ってなことを、近頃の科学系のニュースを見るにつけ思ふわけでございますよ。

 イーロン・マスク率いるNeuralinkが、侵襲型のBMIを発明して20年には臨床実験をする予定だとか、ウェアラブルセンサが汗から健康状態をはかってくれるだとかさ。SFでさんざんぱら書かれていたようなことが、今や現実のもとにあらわれようとしてるわけですよ。いやあ、すごい世の中になったもんだなあと思いますねボカァ。『ハーモニー』に出てきたWatchMeみたいなものも、似たような代物であればもう出来るんじゃないのかしらね。そんな気さえする。

 ところで、この手の技術の話になると、ぼくらは大抵ポジかネガの、両極端な反応をとりがちだ。たとえば書店にでも行って、AI関連の書棚を眺めてみてほしい。かたやターミネーター的な、AIが人類を滅ぼす*3式の本があり、かたやAIによって人類にバラ色の未来が的な、ポシポジ全開の本があったりする。

 まあこれは単に、ゴシップ誌やらまとめブログやらと戦略は同じで、人びとの感情をつよくかき乱すようなものの方が売れやすいから、そういう論調を張っているだけなのだろうけども、まあでも、人間はニ値的な思考に慣れがちであるし*4、進化の都合からネガ的なものに反応しやすいつくりになっておるので、ホジネガ極端かつデジタルな発想をしがちなのは、人間という種一般にいえる傾向性なのかもなあなどと、トンデモ一歩寸前のヨタを思ったりもするわけなのだ。このヨタも、いくつかの道具立てを使ってやれば満足の行く形で実証できそうな気がしているわけだけれども、まずもってめんどくさいし、ぼくにそんな力はありそうにないので、思いつきで留めることにする。

 

  • アニメ

 炎炎の消防隊とお母さんがなんとかいうアニメをかろうじて観ている。あとコップクラフトだっけ。賀東センセが原作やってるやつ。

 炎炎はとにかく作画的な興味だけで視聴してるといっても過言ではない。なにしろ話は良くも悪くも王道的というか、ありがちな話ではあるし、大久保先生のおつくりになるキャラは非常にキャッチーではあるのだけれども、いまいち動機の部分がはっきりと見えてこなくて、そのせいでいまいち感情を乗せづらい気がするのだ。もちろん嫌いじゃねえんだけどもさ*5。いやあ。それにしても、8話の最後らへんにあった、環ちゃんの長尺表情芝居は最高でしたね。8話はほかにも、アレでソレな手合が泣いて喜びそうなシークエンスが盛りだくさんでうれしい限り。

 アニメについてはもうちょい大枠で考えたことがあるんだけど、ふつーにそれだけで一本記事が書けそうなのでここに書くのはやめとこう。気が向いたら記事にします。

*1:この理屈でいくと、そもそもこんな駄文を読む輩は存在しないことになってしまうわけなんですが。

*2:にしても、こういうタイプのタカビー(古代精霊語)ってついぞみなくなったよね。タカビーどころか近ごろは、その後継者であるところのツンデレとかいうやつすらさほど見かけなくなった。

 うーむ。そもそも、キャラクターを属性で語るような在り方自体をそんなに見なくなったような気もするなあ。10年くらい前にはやれネコミミだのメイド(正確にはメードなんでしたっけ。手元に記者ハンドブックがないので確認のしようがない。ああそうそう。記者ハンドブックといえば、この間観に行った「天気の子」の作中に登場していて、装幀は新版そのままだったのに、題名がなんとかいう名前に変えられていて笑ってしまった。)だのと、オタクたちは属性でもって己の萌えを語っていたような記憶があるのだけれども。そういや萌えってことばも死語になって久しい気がするなあ。ううむ。歳はとりたくないもんですなあ。

*3:AIが人びとの仕事を奪う、というのもこの変奏だと思っている。もちろんAIが普及することによって人びとの仕事の形が変わるだろうとは思うんだけど、だからといってみんな仕事がなくなるとか、そんな極端な話にはならないだろうと思うのね。最近もそういう話をTwitterかなにかで見かけたんだけど、いわゆるブルーカラー層が仕事を失うみたいな話になっていて、そんなアホなと思った次第である。AIは人間の知性的な部分の拡張をするわけだから、むしろデスクワーク中心のホワイトカラー層こそ在り方が問われそうな感じがあるよね。ところで、AIの方面にはとんと疎いのだけれども、今存在するAIって基本的には弱いAIなのよね? だとしたらクリエイティブ職はまだまだ生き残りそうだなあとか、単純なアルゴリズムで片付くような知的作業はことごとくAIで置き換えられそうだなあとか、いろいろ思ったりもする。まあでも、シンギュラリティを迎えて、曲がりなりにも強いAI的なものが登場しない限りは、知的生産にかかわる職が、きゅうに人間の掌から失われたりはしないだろうと思う。いやむしろ、現行の形であればそれは、かえってそうした人びとの役に立ちさえすると思うのだ

*4:もちろんニ値的でない論理もあるのだけれども、日常ぼくらの使うツールとしての論理は往々にして実にシンプルで、おそろしいほど排中律によって支配されている。このニ値の枠から飛び出すための枠組みとして、ときおり東洋思想が援用されたりするわけだけれども、ぼくが見る限り、それらのおおよそはある種のエキゾチズムに終始しているというか、反西洋中心主義への目配せに過ぎない場合が多いような気がする

*5:言っても大久保先生の作品は、一応B壱から追っかけてはいるので、そこそこのファンといえばファンなんだろうとは思うのよ。