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ホントにわかる(かもしれない)フォントのはなし【おおきさ編】

■イントロダクション


先日、友人たちとデザインの話をする機会があった。
その友人たちというのが、同人誌をつくるような人たちだったので、話が自然とレイアウトだとかフォント選びだとかの話になったのだ。ぼくは普段から多少そういう関連のことをしていることもあって*1いろいろと知っていることを伝えさせてもらったんだけど、そこでひとつ思ったことがある。
 
それは、

みんなわりとフォントくんのことを知らないのかも

ってことだ。
 


正確には、そもそもフォントくんがあまりに当たり前に存在しすぎていて、すでに知っていると思い込んでしまっている*2、というのが正しいのだろう*3


巷にあふれている、「人間外見より中身だよね!」的な言説と似たようなものだと思うんだけど、みんな意外と文字情報の外見=フォントくんのことをちゃんと見てあげてないと思うのだ。
逆にいえば、ぼくたちが普段目にしている文字情報というのは、だいたいの場合において、外見=フォントくんのことが気にならないくらい見事なタイポグラフィック・デザインが実現されていて、ぱっと見るだけで中身=情報が伝わるようになっているともいえる。

 

うーむ。これってすごく理想的な状況ではある。でも、あまりに自然に読めてしまうっていうことは、それだけ疑問を挟む余地がないってことでもある。
「テツガクは驚きからはじまる」ってどっかの古代ギリシアの人も言っていたように、人間って、自分から疑問に思ったり、不便に感じたりしないと、そのことに真剣に取り組んだりしないものなのね*4
だとすると、人によってはフォントくんのことをぜんぜん顧みないことだってありうる。これって、その人にとっても、フォントくんにとっても、すっごく不幸なことなんだ。
 


だから、ここで、ほんのすこしだけフォントのはなしをしようと思う。
ほんの触りだけ、最低限のデザインをするのに必要なだけ、フォントのはなしをしよう。
きっと周辺情報はとりあつかわないだろう。だから、ややこしい文字集合文字コードの話なんかは(多少は知っていてほしいけれど)出てこない。

ただ、あなたの伝えたいことが、フォントくんの見た目のせいで伝わらなかったりするようなことがないように、

あなたの表現したいものが、きちんと適切な相手に伝わるように、

そのために必要なことだけはなそう。


きっと長くはない旅だろうから、少しの間、ついてきてもらえたらうれしいな。
 

 

 

■フォントくんのなかみ:あなたの意図

中身ばっかりみてないで外見=フォントくんのことも見てあげてよ! ってはなしをさんざんしておいてなんだけど、ちょっとだけ中身のはなしもしよう。いや、実際中身もすっごく大事なんだ*5
ことばをつかおうがつかわまいが、コミュニケーションの本質は「達意」にある。意思をつたえるってことね*6
形式はいろいろあるだろう。文字でも、絵でも、音楽でも、映像でも、はたまた体を使った表現でも、とにかく表現というのは、伝える側の意図があって、それを伝えるためにおこなわれる。

ようは伝えたいことが伝わらなかったら意味がないわけだ
 
ぼくがいま話そうとしているフォントくんというやつも、そういう伝えようとする行為、コミュニケーションを円滑にするための道具、表現形式だ。
だとすると、フォントくんについてふかく知るためには、フォントくんによって表現される内容そのものについても、すこしは知らなければならないことになるだろう。


もし、あなたが今、フォントくんを使って何かを表現しようとしているなら、ここですこし考えてみてほしい。あなたが伝えたいことってなんだろうか

たのしいことだろうか。

かなしいことだろうか。

それとも、そういった気持ちでははかれないような、もっと複雑なものだろうか。
 
とにかく、あなたの表現しようとしているものの形を、輪郭を、かんがえてみてほしい。
そうすることによって、それをあらわすのに適した容姿のフォントくんを選ぶことが、はじめてできるのだ
 

 


■フォントくんのかたち:おおきい? ちいさい?


伝えたいものが定まったところで、フォントくんのことをくわしく見ていくことにしよう。
 
まずはとっても単純な事実の確認からだ。
透明な立方体がふたつあるところを想像してほしい。そして、そのなかになんでもいい、なにかものが入ってるとしよう(仮に、うにょうにょしたスライムみたいなものとしておこう)。立方体に入っている中身を比べてみると、片方が大きくて、もう片方はちいさい

さて、ここで質問だ。
おおきいほうちいさいほう、それぞれに対してどういう印象をおぼえるだろうか。ちいさい子がやるような単純な認識の問題を出されて、馬鹿にされてるように思うだろうか。でも、これってすっごく大事なことなのだ。デザインにおける本質を捉えているといってもいい。だから、当たり前で退屈に感じるだろうけど、すこしだけ付き合ってほしい。
 

まずはおおきなものから。おおきなものって、とにかく目立つよね。それに、ちいさくちぢこまっているものよりかは、ずっと活動的に見えるかもしれない。
それに対して、ちいさなものというのは目立たないんだけど、目立たないことがいいところだったりするかもしれない。たとえばそこまで目立たせたくないものだってあるだろうから。それに、主張が大きければいいってものでもない。うるさくないもののほうが、ながく付き合うのにはいいかもしれないよね。
 
この単純な事実というのは、フォントくんについても当てはまることなんだ。
実は和文、つまり日本語用のフォントの構造は、上で考えた立方体の例まんまなのだ。より実際に即した形にするならば,透明な紙のうえに、文字が乗っかっているイメージだ。

もう少しくわしく言うと、和文フォントにおいて、それぞれの文字は透明な正方形*7に収まるようにデザインされるんだ
だからさっき考えた、大小に関する単純な事実があてはめられる*8

もちろん、それぞれの文字がもともと持つ大きさによって、文字が透明な正方形に占める割合は変化する。画数が多いほうが正方形いっぱいに描画されるだろう。
けれど、それだけじゃない。フォントが違うと文字のそれぞれのパーツの太さや形がちがってくるだろう。それによって、同じ文字であっても、占める面積が変わってくるのだフォントを選ぶときは、これがミソとなる

 

フォントによるちがいを見るために、たとえば、ごくごく初歩的なちがい、そう、ゴシック体明朝体のちがいを見てみよう。

 

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源ノ角ゴシック-Regular(上)と源ノ明朝-Regular(下)

 
この写真に示されているのは、それぞれ、源ノ明朝と源ノ角ゴシックというふたつのフォントで表現された文字だ*9
このふたつのフォントは、「源ノ」という共通の名前がついているように、根底に共通するコンセプトを持っている。
でも、このふたつのフォントは見かけがまったくことなるよね。

きっと、ゴシックのほうが大きく(太く)見えるんじゃないだろうか。それはそのとおり。ゴシック体のほうが、文字の各パーツ*10が太く、大きくデザインされているのだ。一般に、見出しにゴシック体が推奨されるのは、この性質によるんだ。大きいからはっきりしてて見やすいってことね。

逆に明朝体はすこしちいさく(細く)見える。それからよく見てみると、文字のはしばしに、三角形のしっぽみたいなものが付いている。これはウロコといって、字にメリハリを与えてくれるものだ。

さっき考えた法則に当てはめてみれば、明朝体ちいさいから主張は弱い。けれど、そのぶん長く見ていても疲れづらい。さらに、ウロコがあってメリハリがついているから、文章にしたとき読みやすい。書籍なんかで、ほとんどの本文に明朝体が使われているのはこうした特徴によるだろう。

もちろんこれは一般論で、見出し用につくられた明朝体があれば、本文用につくられたゴシック体もある。あくまで例なのだ。

 

ここでわかってもらいたいのは、フォントによって透明な正方形に占める文字の割合が変わるということだ
簡単に言うと、大きかったり小さかったりするってことね。
そんで、大きいやちいさいっていうのはそれだけで見え方がちがってくる大きいほうがぱっと目に入ってきやすいし、小さいほうが長く付き合っていきやすい。

 

 

 

 

次は、明朝とかゴシックとかいう大枠だけじゃなくて、もう少しくわしく、フォントの出自について見てみよう。

 

(つづく……かも?)

 

※更新履歴

2019.11.18.公開

(同日) 注に誤りがあったので訂正。誤)『新文章読本』→正)『文章読本』(丸谷が書いていたのは『文章読本』でした。『新文章読本』は川端だったか。文章読本ってタイトルの本多すぎてごっちゃになるのよねえ。ちなみに、谷崎と丸谷のそれはすっごくいい本なのでおすすめです。)

*1:といってもデザインは専門ではない。もっぱらDTP下流工程を担当することが多いのだけれど、たまーにエディトリアルデザイン的なこともやったりするので、まったく知らない人と比べれば、そっち方面には多少は明るい気はする。

*2:身近なものについてほど無知であるというのは、べつに普遍的な法則ではないけれど、ある種の真実をあらわしていると思う。たとえば、アウグスティヌスが、時間というあたりまえのものについて似たように評していることを思い起こされたい。

*3:巷にあふれている、MS明朝・ゴシックがふんだんに散りばめられた、クソダサフライヤー・ペーパーの類を思い出してほしい。といっても、Win8以降はWindows環境においても、字游工房のつくったクールなフォントがバンドルされるようになっているから、状況は改善されているんだと思う(たぶん)。でも、いまだにクソダサフォントは見かけることがある。それは、フォントくんのせいじゃなくて、きっと、選び手がへたくそなせいなのだ。

*4:ケーザイガクでいうところのインセンティブってやつだ。もともと改善しなくてもいい状況(だと感じられるような状況)だったら、そもそも工夫しようだなんて思わないよね。

*5:かのソシュール大先生も言っているとおり、記号というのは内容を表現する形式と表現される内容とでできている。ここでいうと、表現形式であるフォントくんがいかにがんばっても、内容とあってなかったりしたら本末転倒なんだ。あくまでも形式と内容のふたつが、なかよく手をつないでいなきゃなりたたない。

*6:これについては丸谷才一が『文章読本』ですごくいいことを言っている。

*7:仮想ボディという。

*8:この考え方はいろんなところで応用が効く。たとえば文章のリーダビリティがそうだ。ひらがな・カタカナに比べて、漢字というのは画数が多い傾向にある。つまりは字として密度が濃く、大きくなりがちだ。だから、漢字を多くするとぱっと見たときの主張が強くなって、視覚的にも読みづらく感じやすい。

*9:写真はAdobe Fontsの該当ページ「源ノ明朝(https://fonts.adobe.com/fonts/source-han-serif-japanese?ref=tk.com)」,「源ノ角ゴシック(https://fonts.adobe.com/fonts/source-han-sans-japanese)」をそれぞれキャプチャしたもの(2019.11.18付)。引用の範疇に沿った利用と考えますが、万一問題がある際は一報下さい。ただちに差し替えます。

*10:エレメントという。