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過去の自分の黒歴史にツッコミを入れるコメンタリー集(2015年編・その1)

《凡例》


過去の自分が必死になって書いてた雑記を、今の自分が面白おかしく取り上げてネタにしてやろうというセルフ性悪企画だぜ。イェア。

昔書いたものを読み返してみると、今でも考えの変わってない部分とか、逆に、既に乗りこえてしまった部分なんかが、ないまぜになっててなかなかおもしろいぜ。ぜひみんなもやってみてくれよな。

構成としてはまず昔自分の書いたものが載っていて、その直後にそれに対する現在の自分からのコメンタリーが載ってるぜ。暇だったら順番に読んでみてくれよな。暇じゃない人はよかったらツッコミコメントだけでも読んでみてほしい。今回は2015年の田代と対話をしてみたぜ。それではチェケラ。

 

(本当は2015年のものをすべてひとまとめにしたかったけれど、思いのほか分量があったので分割してお届けします)

 

 

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日付不明


/自分の生活を統御できないのは、罪だと思う。たとえ理性という薄膜が、進化の過程でぐうぜん立ち現れている夢幻のようなものだったとしても、それは変わらない。現にわれわれは、理性ありきの社会的生活を送っているのだから。少くともわれわれの置かれて居る社会環境において、生活の理性的統御とは、理想とされる在り方であろう。自制の効かないのは罪である。われわれは幼少よりそうした価値観、乃至はそれに類する価値観を身中に飼ってきた。そしてわれわれは、その価値より他に物差しを持っていない。罪は受けねばならない。
自己に陶酔していると思われるのを承知で申し上げれば、わたくしのような者は、とんだ罪人なのである。自由を気取った、それでいて、その実、自由を足枷にしかできぬ、あわれな罪人なのである。

 

【今の自分からのコメント】

きしょすぎて笑った。

自己陶酔しすぎなんすわ!!!!!!!

もっと知識をつけろ!!!!!!ボケ!!!!!!視野を広くもて!!!!!!!!!

今でも全然世間のことは分かってないと思うけど、このときよりかはまだ知識があるので、なおのことそう思う。結局見識を広く持たないと、それだけ視野が狭くなってしまうのよね。

ただ、理性というものが大事だという姿勢は今も変わっていないように思う。

 

 

0507


/太陽を直接表現するのは、ばからしいと思った
/キャラクターとはどこからキャラクターか
/地べたに落ちているツインテールはキャラクターか
/名前はキャラクターか
/声はキャラクターか
/この指摘は分類錯誤かもしれない:しかし声だけのキャラクターもいれば名前だけのキャラクターもいる

 

【コメント】

キャラクターってどこからキャラクターって……いや、辞書でも引いてみたらいいんじゃないですかね?

たしかこれは、河原を散歩中に書いたんだけど、そのとき川面が陽光を受けてきらきら照り映えてて、「太陽を表現するのに、太陽を直接描写する必要はなくて、陽光を受けた川面を描けばそれで済むじゃないか!」というような、描写のいろはみたいなことを改めて体感したのね。まあでも、パスカルの信仰体験ばりの衝撃*1だったねありゃあ。だから、一行目の「太陽を~」に関してははなかなか鋭いところをついている気はする。他のやつもアイデアとしてはそこそこおもろいのでは。

 

0508

/わたしという記号は他者によって社会に切り出される

 

【コメント】

何を考えていたのかさっぱり思い出せん。「自己には、他者によって抱かれる自己像も含まれます~」とかそういう、ジョハリの窓的なこと? すげえそれっぽい記述だけどなにを考えていたんだろう。

 

0609

/男もすなる日記ってここまでしかわからんしこの書き出しって紀貫之のなんだっけってぐらい古典に詳しくないというか紀貫之であってんのかほんとに。
本日の起床は7時ごろで外は薄暮が差すというのか、ミルクをたっぷり入れた混ざりかけのコーヒーのような空模様だった。
惰性でテレビを点け、三十分ほどアザラシのごとくよこたわったまま、ささいな物思いに耽る。何を考えていたかはもはや思い出せない。
八時前に朝食をとった。ブルーベリーヨーグルトにチアシードをかけ、その上に切ったバナナを乗せたものだ。特にうまいとも感じず、テレビを観るのと同じように惰性で胃臓に落とした。
家を出たのは八時半ごろ、しぼった雑巾を凍らせたみたいな風が吹いていて、半袖では寒かった。
パーカーを着て出た。
昼前まで家で勉学に励もうかしらんとどこともしれぬやる気スイッチを懸命に押そうとしていると■■からのメールが9時に届く。
すわ、ひょっとすると本日のお勤めは9時からではなかったか、と焦りに焦り、急いで■■に向かうも徒労、結局13時から愉快に仕事をして家に帰り着いたのは17時過ぎだった。
ただひたすらに肌寒い一日だった。

 

【コメント】

ただの雑記。よってとくにコメントはない。伏せ字箇所(■)はなにかしらを特定されそうだったのでその対策。それとなんかしらんけど、一部叙述トリックみたいになってる箇所があるよね。そこんとこは推理物として楽しんで頂ければ幸甚。まあ、大した話じゃないんですけどね。

 

0927


/唐突だが、ぼくは学歴コンプというやつを抱えている。学歴に対してさほど強烈な関心を抱いているわけでもないのだが、きっとそうだ。
ぼくは昔から、優秀な人間に劣等感を覚えてきた。自分より優秀な人間を前にすると自分がひどく矮小に思え、胸の辺りがちくちくと痛む。そして彼と自分とを引き比べ、「ああ、自分はなんと疎かで劣った人間なのだろう」と分かりきった事実を反芻するのだ。くだらない。くだらないと心底から思うけれど、それがやめられない。ドラッグの快楽と依存性を味わったことはないが、例えるならばきっとそういうものだ。彼らとて、生れた瞬間から、ぼくの言う強者であったはずがないのだけど、ぼくは彼らが元から強く生れてきたものと考え、この世の不条理を嘆くのである。不条理だと嘆いて、その場をしのいで、それでおしまい。いつもそうだ。悟ったような振りをして、他人におもねってばかりで自分がない。考える頭がない。考える自分がない。考える世界がない。優秀さを固定的な属性だと思い込んで、それがどれほどの忍耐と努力の中で形成されていったかなど及びもつかず、井の中でふんぞり返る蛙。それがぼくなのだ。その場しのぎに必死になって、大事なことを見落としている。いや、見落としているのじゃない。そもそも見るための目がないのだ。ないと思い込んでいるのだ。阿呆だ。とんでもない阿呆だ。
更にたちが悪いことに、ぼくはそんな自分を良しとしている節がある。そんな自分が気にくわない。

 

【コメント】

こいつこういう文章わりとうめえよな。自分の卑しさをだらしなく正当化しちゃうとことか、ちょっとおブンガクのかほりがあるよね。

今読み返してもそれなりにおもしろく感じたから、そこそこいい線いってんじゃない? しらんけど。

 

 

1105

 

/動物になるな。動物的に生きるな。知性という手綱を手放せば、容易く獣に堕ちる。

 

【コメント】

あまりにも考え方がふるいよワトソソくん。17世紀から来たのか君は。

「個人が理性を行使することによって、無限に自分を律することができる~」みたいな発想をするなんて、あまりにも不勉強すぎるんじゃないのチミィ。もっといろんな分野の本を読みなさいよ*2

理性に関する諸能力を個人に帰するという考え方は、言ってしまえば、20世紀以前の古い考え方だといえる。

人間の理性(≒スローな思考、システム2)は、のちの研究によって、それほど万能で強力なものでないことがわかっているのだ。たとえば、90年代以降の実験心理学やその他学問分野の実験・調査の中では、人間の注意は周りの環境次第ではたやすく逸らされうる*3し、基本的に、いちどきにひとつの物事にしか発揮できないという結果が出ている*4*5。ストイックに理性を磨けば万事解決オッケーというほど、事態はたやすくないのだ。

 

……まあでも、こういう考えを捨てられない節は今もある。

 

 

1106

 

/人の痛みを理解できるようになれ、というのは傲慢だ。けれど、人の痛みを想像できない人間は虚しい。
/知性を絶対視してはいけない。しかし、軽んじてもいけない。少くとも現今において、それは人間の生存に必要な能力だ。

 

【コメント】

これは自画自賛なんだけどさ、なんかそれっぽい警句うまくない???それっぽいだけだけど。

読み返してわりと感心しちゃったのよね。まじで。ここでも明らかだけど、ぼくってやっぱり知性に対してどこかしら信頼を置いているよね。そこは今も変わらん。

 


1120

 

/自分というものがもう、いやになってしまいました。


そう思う、何か直接のきっかけがあったというのではないのです。ただ、なんとなく、いやなのです。自分と、自分をとりまく環境とが、もう、どうしようもないところにきているように思えて、仕方がないのです。自分に何かをなしとげられるほどの力があるとは思えません。けれど、何かをなしとげねば生きていけぬのが社会というものでしょう。そして、社会というものに参画しない人間は、死ぬよりほかありません。だとすると、自分のような人間に、生きている価値などないのでしょう。

だったら、何かをなせばよいではないか。

そう、人は言うでしょう。ぼくもその通りであると思います。それはまったくの正論で、反論の余地はありません。何かをなさないままの状況に困っているのであれば、あがけばよいのです。そんなことは、ぼくだって分かっています。分かっていても、できないのです。何かをしようと思うときゅうに、ふっと、体から力が抜けてゆくのです。それまで体じゅうをあたためていた意志の力が途端に消えて、糸の切れた人形のようになるのです。八方ふさがりの気分です。

 

 

【コメント】

なんかこう、貧乏な人文学徒が書きそうな文章だよな。当時もたぶんそれを狙ってたんだと思うけど。っていうか実際当時まさにその通りの身分だったけど。

これより前の雑記にも共通することなんだけれど、こいつ社会に対してすげえコンプレックスを抱いてるよな。

教育リソースだけは馬鹿みたいに食い散らかしてる(そう、食い散らかしていたのだ)くせに、ろくに社会性を発揮できていない自分に、相当な焦りを感じていたのが手にとるようにわかる。そうした感情は今も無いわけではないのだけれど、当時に比べれば、今のぼくは、社会性は無いにせよ皆無というわけではないし、そしてなにより、経済学を少しかじったのがよい方向に作用していると思う。

 

 

/そういえば中学の時分は、このまま消えてしまいたいとずっと思っていた。

 

【コメント】

いや、急に陰キャ出すのはやめて!?  いたたまれなくなっちゃうから!!

なんて声かけていいかわかんなくなっちゃうから!!

 

 

というわけで今回はここまで。つづきはここからどうぞ。

*1:もちろん誇張表現である

*2:今の自分にもささる言葉だ

*3:たとえばあなたは、ダイエットをしようと思っていたのに、家に置いてあるお菓子をつい食べてしまった、というような経験をしたことはないだろうか。

*4:これについては、非常に有名な次の動画を観てもらうのがいいと思う。ボールがパスされた回数を数え上げるのに必死で、私たちの意識は、あまりにも不自然に横切るゴリラでさえ見逃してしまう。https://youtu.be/IGQmdoK_ZfY

*5:さらに付け加えるならば、人間理性のこうした不完全性が確かめられているのは、なにも実験室内での規定された実験や、主観性の交じるアンケート調査などに限らないということだ。たとえば神経科学の分野でも同様の結論が出ていて、そこでは、心の哲学の分野で使われるジャーゴンになぞらえて志向性などと呼ばれる。ただし、ここで誤解のないように補足しておきたいが、こうした事実にも関わらず、依然として、人間理性の有用性は損なわれることはない。神経科学において、人間の理性や意識に多大なる影響を及ぼした実験に、リベットの実験がある。これは、現代思想の分野の中でも、とくに不勉強な人びとがしばしば援用し、さも、人間の意識や理性的なものが無意味であることの例証のように扱っているものだ。しかし、昨今の意識研究の成果を少しでも見るならば、これは大きな誤りであるというほかない。たしかに、リベットの実験で確かめられるように、自身が腕を動かそうとするまさにその直前にはすでに、無意識のレベルで準備電位が生じているのだろう。しかし、無意識のレベルでの無数のニューロンの発火はそれ自体では方向性を持たず、そのままでは、われわれ人間が日常的に行うような、高度に関連づけられた一連の意図的な行動を引き起こすことなどできないのである。そこで意識にお鉢が回ってくるわけだ。意識は、無意識下で無数に列挙せしめられたそうした選択肢を拾い上げ、必要なものだけを掴み取る役割を果たすのである。そして、そうした意識的な現象をうまく操り、対象の脱文脈化やバッファの活用といった非常に抽象的な思考、すなわち理性的な思考が可能になるわけである。