prograde winter

hi, i'm JK. thank you.

過去の自分の黒歴史にツッコミを入れるコメンタリー集(2015年編・その2)

前回の続きだぁ!

2015年分はこれにておしまい!

 

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1122

/他者に認められたい。承認されたい。しかし、そんなことをあけすけに言っては、むしろ逆効果である。

 

【今の自分からのコメント】

おっしゃるとおり。

まあでも、承認されたいっていう欲求も、しょせんは遺伝子の生存戦略にしたがって実装されたコードに過ぎないんだから、べつにあけすけでもいいじゃんって思うけどね。

 

 

 

1124

 


/生きている理由を探すよりかは、死なない理由を探すほうが簡単だろう。なぜなら、あることを証明するよりも、反証するほうが容易だからだ。譬えば、全称命題を経験的に証明することは不可能だろう。少くとも、ぼくには不可能に思える。それにくらべて、全称命題を否定することは容易だ。たったひとつの反例を生じるだけでよい。それで、つみあげてきた証明の山は崩れる。完全に崩れさるとも限らないが、部分的でも崩れればよいのだ。そういう理由から、生を肯定するよりかは、死を否定するのがよいと思う。生の肯定は困難である。誰であっても、一度や二度は、自棄を起こすことがあろう。もうこんな人生はいやだ。生きていたくない。死んでしまいたい。消えてしまいたい。一生のうちで、誰しも一度くらいは思うのではなかろうか。ぼくなぞはしょっちゅうだ。だから、生を完全に肯定することは難しい。最善観のまえに、悪の存在が立ちはだかるように、生を肯定するには、死という問題を乗り越えねばならない。死とは、乗り越えるにはあまりに深すぎる。どうあっても越えられぬような気さえする。であれば、死を否定するよりあるまい。いまはまだ、死ぬべきでないと思うよりほかあるまい。

 

【コメント】

ところどころ論理の飛躍が見られるけど、今読んでもそこそこおもろい気はする。

ぼくは昔から、自分の死ねない理由を考えているんだけど、これは無理やりひねり出したアプローチのうちのひとつね。死ねない理由については、今はもうあんまり考えることはなくなってしまった。これは大人になったと言うべきか、どうか。

 

 

 

1128


/一年以上も寝かせていた(怠惰のために読まなかったのではなく、あくまで寝かせていたのだ)、マルコムによるウィトゲンシュタインの評伝を読んでいる。むずかしい表現はなく、ただひたすらに読みやすい。それにおもしろい。なぜ今まで読んでいなかったのだろうと思うほどだ(寝かせていたから、面白かったのかもしれないけれど)。
知らずのうちに僕は、ウィトゲンシュタインを神聖視していたのだけど、この本を読んで目が覚めた。というのも、彼に対する敬意(なしとげた仕事と生き方への敬意)は少しも損なわれてはいないが、盲信とも思える信仰を打ち払うことができたのだ。彼が天才であったことは疑いない。しかし、雲の上にいるような、神様の如き存在ではないのだ。
それから、彼が文章の音律について話している箇所が心に残った。文章の音律といえば、泉鏡花が心を砕いたことでもある。文章は目で追うものであるとともに、耳で聞くものでもある。その点で、音律というは美文の必須要素なのだろう。ウィトゲンシュタインも鏡花も、そこに気がついていたのだ。

 

【コメント】

ウィトゲンシュタインっていう哲学者の伝記を読んだよって話をしている。マルコムっていうのはウィトゲンシュタインの弟子にあたる人ね。

ぼくは研究者でもなんでもないから関係ないんだけど、どうやら、ウィトゲンシュタイン研究者の人たちというのは、他の哲学研究者に比べて研究対象を信奉しがちな傾向にあるみたいね。どっかの教授がその様子を「ウィトゲンシュタイン教」と形容していた気がする。まったくのしろうとであるぼくも、ウィトゲンシュタインという哲学者の数奇な人生や、その精緻かつ透徹した思考に魅入られ、信仰に似た感情を抱いていた時期があったんすよね。まあ、哲学に以前ほど興味が無くなった今でも、ウィトゲンシュタインのことは尊敬してます。
あと、最後らへんに出てくる泉鏡花の話は、「文章の音律」という鏡花のエッセイにくわしく書かれてあるので、興味のある人は是非読んでみてほしい。かつて戦後国語改革の折に起きた新旧かな論争などと併せて見ると、自分の母語に対する姿勢ががらっと変わるはずだ。

 

 


1207


/あなたが何を知っているというのか(ぼくは何も知らない)。何も知らないというのに、どうしてそうまで自信に満ちているのか。それともあるいは、ぼく以外のすべての人が、隠された何ものかを知っているとでも。
/たかだかパンの耳のあたりをかじっただけで、パンの味を知った気でいる。白くやわらかな、とろけるような食感も知らないで。
/しかしパンはどこからが耳で、どこからがそうでないのか。パンを耳とそれ以外に分ける境界はあるか。
/たとえ境界があったにせよ、その境界はどのようにして境界たりえているのか。

 

【コメント】

なにかに憤ってたんだと思うけど、なにに憤ってたのかは覚えてない。書き方がなんか藤本隆志訳のウィトゲンシュタインの文章みたいだよね。たぶん影響されてたんだろうなあ。

この当時、周りの人はなんでこんなに自信満々(のような風体)で生きていられるんだろう、ってしばしば思っていた記憶があって、たぶんこれもそういう意図で書いた文章。

 

 

/現実にハーモニーは訪れない。ならば、われわれは治療されるべき意識にすがる他ないではないか。意識という病巣とどう付合ってゆくか。折り合いをどうつけるか。
/苦しみが悪である、リソース意識が悪であるというのも、意識があってのみ成立しうる。そもそも論考それ自体が意識の産物だろう。純粋経験を論じた西田が陥っていたような、「語り得ないもの」を語る困難に直面しているのではないか。意識外を意識でもって語ることは可能か。正当化や証明は、意識のうえに成立しているのではないのか。前意識的証明は存在するか。
/浅学ゆえの蛮勇に他ならないのだろうが、ぼくはまだ、意識というものが必要であるように思えて仕方がない。意識の持っていた神秘性のようなものは喪われたのかもしれないけれど、意識は人間が人間たりえる必須要素であるように思える。対立や矛盾があるからこそ面白いのではないか。苦痛在っての快楽であり、快楽あっての苦痛である。

 

【コメント】

たぶんこれは、伊藤計劃『ハーモニー』へのラブレターじゃないかなあ。ぼくは伊藤計劃作品の中でも『ハーモニー』がとくにすきで、はじめて読んだときには、それこそ救われた気持ちさえしたものだけれど、「進化的に不要なのだとしたら、意識は治療されるべきである」という結論に、それでもどこか疑問を感じていて、これはけんめいにぶつかったその結果だ。ちなみに今だと後出しじゃんけんで余裕です*1

 

/死を選ぶのはたやすい。そのうえ、それを拒むものは存在しない。しかし、そう思うとともに、生きねば成らないと思う。盲目な意志がぼくを貫いている。このめくらと死にたがりとの喧嘩を、どう仲裁すればよいだろうか。
/今年からはじめたこの雑感も、それなりの分量になってきている。ただ、読み返してみると、たいていがありきたりのことで、おもしろくない。けれど(2017年1月5日校閲)砂塵の中に、一粒くらいダイヤがあってもいいのではないか。

 

【コメント】

よくあるエロスタナトスの対比をめくらと死にたがりの喧嘩と呼んだところは、「え……ちょっとかっこいいじゃん……」と思ってしまったので評価したい。後者の文章については、自己陶酔成分が多量に含まれすぎて胸焼けがしそう。

 

 

 

1210


/人生に意味はない。それは明らかなことだろう。しかし、それでも、人生に意味を求めずにはいられない。だって、意味のない世界は乾燥しきっていて、人の住める環境にないから。

 

【コメント】

出たよそれっぽい文章。そもそも人間にはインタプリタモジュール標準装備されている*2から、意味のない世界なんて想定するだけ無駄でーす。はい終わり。
このころのぼくは、それこそ黎明期の分析哲学なんかの影響で、意味という概念に過度に惑わされていた節がある。

 

 

 

1213


/敗北主義には、陥りたくない。


1215


/許されないもの。冷笑家、敗北主義者、知的怠慢。そういうものに成り下がったときは、死のうと思う。

 

【コメント】

1213の記述と合わせて、人生の格率として勝手に定めたこと一部だ。これは未だに胸に刻んでいる。まあ、ここに書いてあるほど厳格に守らないといけないとしたら、ぼくはもう30回以上は自害しなきゃいけないとは思うんですけどね。はははは。

 

 

/永遠の今という考え。直線的な時間でないにせよ、未来を推測することは不可能に近い。それに、未来というのは一生訪れない。だとしたら、現在を生きるしかないのである。

 

【コメント】

これはたぶん、西田幾多郎の議論が頭をよぎったんじゃないかなあ。西田の思想はわりとすき。でも、学派としてはあまり好きじゃない*3

 

 

1222


/たとえば梶井基次郎のような文才を手にすることができたなら、ぼくは悪魔に魂を売ったっていいと思っているのだ。ただ残念なことに、いつになっても悪魔はやってこない。ぼくの魂がまずすぎるせいだろうか。

 

【コメント】

自己陶酔してますわな。

まあでも、突然目の前に悪魔が現れて、「ドゥハハ魂と引き換えに梶井基次郎ばりの文章力をやろうドゥハハ」とか言ってきたら、即座に首を縦に振るとは思う。

 

 

1224


/日常をとりまくもの。たいていが倦怠感。それと嘔吐感。
/ここのところとくに、ぼくの感覚は人とずれているのかもしれないと思う。

 

【コメント】

これまた陶酔してますわね。陶酔。
感覚がずれてる云々については、「うわー出たよ。人とは違うアッピルしちゃうやつだよヒャー」って思うかもしれないけれど、次年以降も引き続き登場するので、どうかそのときまで評価は差し控えておいて頂きたい。

 

 

下巻文体論(p.95~);文体には三つの分類がある。雅文体・俗文体・雅俗折衷体がそれである。雅文体は「文弱婬靡(p.98)」 なる、中世は藤原氏の婦人連により書かれた文体を元にしており、婉曲閑雅の文体にして、豪放磊落とした物事の描写には適さない。対して俗文体は時代時代の話し言葉をそのまま書き記したような文体であり、民衆風俗などを書くのに向く。しかし、軽薄である。この両者を絶妙の塩梅で成立せしむるのが雅俗折衷体であり、折衷体はその配合のバランスから稗史(よみほん)体と艸冊子(くさぞうし)体とに分けることができる。(続)

 

【コメント】

たぶん坪内逍遥の『小説神髄』の読書ノート。

本読んでも忘れるからノートにつけなきゃと思ってたまーにつけようとするんだけど、大抵の試みが三日坊主で終わってますがな。これ以外ノートにとっていなかったせいか、案の定『小説神髄』の内容はまったく覚えていない。

*1:ハーモニー発刊当時には出ていなかった書籍の知見から議論できるという意味

*2:左脳の司る機能のひとつ。あらゆる外界の情報は感官に入力され、右脳で集約のうえ、左脳で意味づけされる。

*3:聞いた話では、京大は西田学派が幅を効かせていたせいで、分析哲学系の先生方がずいぶん割を食っていたんだそうな。だからあまりいい印象を持っていないのだ。